死刑と無期懲役の選択基準とは、その差を事例を元に解説


裁判において死刑と無期懲役のいずれを選択するかについて、明確な基準があるかと言えば、もともと境界の設定可能な問題ではないので、基準そのものが設定できるものではありません。
ある被告人が死刑になるか無期懲役になって一命をとりとめるかは、まさに運命に負かされていると言ってもいいでしょう。
当然に無期懲役である事件が死刑になったり、第一審で無期懲役であった者が二審や最高裁で死刑判決となる事件もめずらしくありません。

日本における三審制度のもとでは、検察官の控訴、上告によって第一審の無期懲役判決が死刑になる不利益変更が可能です。
最近でも1993年、2002年に一審は無期懲役であったが、高裁で死刑判決を受け最高裁で確定した事件があります。
アメリカではこの種の不利益変更は憲法違反とされています。
三審制は被告人の利益に働くものでなくてはなりません。


死刑判決の最終的判断は、むろん裁判官の裁量に委ねられていますが、一応の規準は刑事訴訟法第248条の「犯人の性格、年齢および環境、犯罪の軽重ならびに犯罪後の情況」にあるとされています。
この規準で死刑か無期懲役かを判断することは事実上不可能です。
1968年の連続射殺事件の永山則夫死刑囚は、第一審が死刑、第二審が無期懲役でしたが、最高裁は、死刑選択の許されるのは、「犯行の罪質、動機、態様、殊に殺害の手段、方法、結果の重大性・・」など量刑の均衡の見地からも、一般予防の見地から極刑が止むを得ないと認められる場合は、死刑の選択が許されるとして高裁に差し戻しました・
この規準に従い高裁は永山に死刑を選択したのです。

当時、最高裁でこの事件に関与した団藤重光氏によると、「死刑を選択しろとは決してここでもいっていない。私は、ここでは船山判決の趣旨に言い換えられた形において十分に生かされているように、私なりに理解するのです。また、このように理解されなければならないのであります」と述べています。
むろん、この見解は団藤氏の見解ですが、現実は死刑回避として「理解されなければならない」ものが2度目の高裁では死刑を選択し最高裁が最終的にこれを確定しました。

ここでは、一人の被告人の死刑選択の不合理について述べましたが、同質・同態様の犯罪においても、ある事件については死刑であり、ほかの類似の事件においては無期懲役であったりします。
もとより類似事件はあくまでも同一事件ではないので、それなりの限界があります。
要するに、その事件について被告人に有利な情状を優先して取り上げるか、不利な情状を優先するかの裁判官の主観的判断のありようによって、死刑か無期懲役かが決定されます。


イギリスで1965年に死刑廃止法案を可決した真実の要因は、死刑を選択する種類の殺人罪を注文中に確定することが不可能であることがわかったことによります。
死刑を宣告され執行される殺人犯と、それよりもっと非難されるはずの者が執行されないという現実に対する、はげしい非難の前に死刑の正当性は揺るがざるを得なかったのです。

アメリカにおける死刑廃止運動のもっとも大きな原動力も、死刑の適用が人種差別に連動していることにあります。
また死刑になる者に、社会的地位の高い者、高学歴、金持ちはいない、ということにも死刑適用の決定的な問題があるとされています。

死刑と無期懲役との境界は、かくしてあり得ない。
たしかに一応の基準はつけられるかもしれませんが、それではアメリカ連邦最高裁のファーマン判決の指摘のように、死刑と無期懲役の選択の余地がない絶対的死刑制度を認めたなら、このような矛盾は生じないかと言えば、そうではありません。
なぜなら絶対的死刑と無期懲役との境界それ自体が人工的なものだからです。
アメリカでも絶対的死刑は憲法違反の判決が出ています。


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