切なくて悲しい話の一覧


大学1年の時、第二外国語の語学授業の一コマを担当教官とそりが合わなくて単位を落とした。
えこひいきがひどかったり、発音が変な学生をその場で小馬鹿にするような先生で1/3くらいの生徒がボイコットしたり。

そうすると翌年に強制的に再履修ということになるのだけど、その担当が引退間際のお爺さん先生だった。
仙人みたいな風貌、年もけっこういっててヨボヨボ。そのせいか歩くのがとても遅かった。
自分が行っていた大学では、授業開始から30分経過しても先生が来なければ自然休講。
しかしその仙人先生は「ワシは歩くのが遅いから30分過ぎても帰っちゃだめだぞお」と笑って言って学生を引き止めていた。

毎回30分過ぎるか過ぎないかくらいにようやくやってくる。でも授業はすごく真剣にやってくれた。
最初の授業で「君らは○○が学びたくて今の学科に入ったのだろう。
第二外国語なんて大して意味もなく義務でしかないからつまらない気持ちはわかる。
だがやらなきゃいかんものからは逃げられんのだ。だったら割り切って楽に楽しくやろう。
出席だけちゃんとしたら単位はやるから、休まず来なさい。」と。

授業では、そんなに気張って大丈夫?ってくらいに大きい声で発音の指導をしたり。
「ただ教材の文章を読むのだけじゃつまらないだろうし、君たちは文学部の学生なんだから」と
仙人先生が長い研究人生で厳選したという文章を和訳して、文学的な楽しさの観点で教えてくれたり。
どうせ再履修だから、と半分腐っていた自分らも楽しく語学が学べたし
ほかの先生の語学授業や、専門の分野でもけっこう役に立つような授業だった。

1年、きっちり授業を受けてテストは簡単なものだけ。最初の言葉通り単位もくれた。しかもA評価だった。
「これで単位の義務は果たしたろう。来年からは語学はないから、好きなだけやりたい勉強をしなさい」
と最後に言って終わり。
自分は最初の語学でそりが合わないと我慢がきかずに授業を真面目に受けなかったことを恥じた。
だからというわけではないけど、専門の学科はとにかく頑張った。
卒論も複数の教授から褒められる成果を残せて、学生時代の勉強はひとまず悔いなく出来たと思う。

数年経って大学を卒業。社会人になった一年目、朝新聞を読んでいたら小さい記事に目がとまった。
「○○市の仙人さん宅で火事があり、一人暮らしの仙人さんと見られる遺体が見つかった」
名前も住んでいると聞いていた場所も記事と一致。すごく衝撃的だった。あの仙人先生が・・・
同じ大学に通っていた妹に確認してもらったら間違いなく仙人先生だった。
出火元は台所だったかだけど、見つかったのは玄関付近。
逃げ遅れて玄関まであと少しのところで力尽きたのだろうということだった。
「ワシは歩くのが遅いから・・」と言っていた笑い顔が今でも忘れられない。
そして恩人とも言えるような人が唐突に亡くなったことが衝撃的だった。



もう亡くなった大正生まれのオイラのばあちゃん
13歳の時に親に売られて満州で売春婦してたそうな。

その時に陸軍の整備兵で好き者やった兵隊さん(オイラのじいちゃん)に
「俺の嫁になるなら身請けする」って言って
部隊の工具や備品をパクって売って貯めたお金で身請けして嫁にしたそうな。(じいちゃんは否定)
終戦迎えて内地に帰って…じいちゃんは小さいながらも
某牛乳メーカーの役員まで出世してそこそこ財を作った。

じいちゃん、何歳になっても女好きが治らなかったが、ばあちゃんはいつも

「私はじいちゃんがいなかったらボロボロになって死んでたやろうからじいちゃんには何も言えん」

って泣きながら笑い飛ばしてた。
しかし、そんなじいちゃんだが、女遊び以外はばあちゃんにむっちゃ尽くしてた。

ばあちゃんが何かのテレビ番組で綺麗な景色見て「いいなぁ…」ってボソッと言ったら、
2、3日後にはじいちゃんが「おい!旅行行くぞ!」ってばあちゃんが言ってたところに
大名旅行に連れて行ったり…

ばあちゃんが、何気なく肩を自分でトントンしたら
必ずじいちゃんがすぐにばあちゃんの後ろに回って肩叩きしたり…
ばあちゃんの誕生日には必ずウェディングケーキばりのでかいケーキを買ってきて
毎回「こんなでかいの誰が食べるのよ#」ってばあちゃん怒って…

晩年、ばあちゃんが

「わたしゃ女郎屋の女でよかった。じゃないとじいちゃんと逢えなかった…」

って話をオイラに言った2日後、昼寝したまま綺麗な寝顔のまま永眠したなぁ…



普段俺のことをバカにしまくってる

ドーベルマンのロッキー

しかし小学生のとき、ロッキーは俺を助けてくれた

当時お袋の実家に帰省していたとき、

近所のデカい川にロッキーと一緒に遊びにいったんだが、

川の石を渡って真ん中までたどり着いたとき、

足元のコケに滑らせて転落してしまった

落ちた場所はギリギリ足が着く深さだったんだが、

流されるうちに深い場所にいってしまい、

パニくった俺は泳ぐことも忘れ溺れていった

釣り人はもっと上流の方に行かないといないし、

道路からも遠いので溺れながらも必死で叫んでも、

誰も来ない状況

しかも川の水は冷たく、

段々力が抜けていって、死を覚悟し始めた頃、

目の前にロッキーがいて、

俺のシャツを噛んで川の岸に運んでくれた

正直ロッキーが来るのはありえないと思ってた

だって俺はロッキーが逃げないように

リードを階段の手すりに結んでいたから

どうやってロッキーは来れたんだろうって思って

水を吐いて落ち着いてからロッキーを見ると、

リードが噛み千切られていた

首からも余程暴れたのか血が出ていて、

こんなに必死になって俺のことを助けてくれたのかと思うと、

小学生ながらも感動して、号泣した

それ以来ロッキーは俺のヒーロー

もしロッキーに何かがあったら次は俺が助けてやりたいと思う


俺の母さんは、生まれつき両腕が不自由だった。
なので料理は基本的に父が作っていた。
 でも遠足などで弁当がいる時は、母さんががんばって
作ってくれていた。
でも、小学校6年の時の遠足で、
見た目が悪い、母さんの弁当、を友達に見られるのが嫌で
とうとう「弁当はコンビニで買っていくから、この弁当は
いらない!!」 と言ってしまった。
 母さんはそんな馬鹿な俺に、ただ、うまく作れなくて
ごめんねとしか言わなかった・・・・。
時は過ぎ、小・中は給食だったのだが、高校になってからは
給食はないのでいつも昼は購買のパンですませていた。

しかし、高校2年になったある日、母さんが弁当を
作ると言い出した。 遠足の時に作ってくれたものとは
味も見た目もよくなっていた。
不自由な手で、一生懸命作ってくれたのだ。
と、思ったのもつかの間。
肺炎で入院したかと思うとぽっくり逝ってしまった。
弁当を作り始めてから3ヶ月しかたたぬうちに・・・。
母さんが死んだ後、親父から聞いたのだが、どうやら母さんは
俺のために、定食屋をやっている知り合いの所に一年間料理を
習いに行っていたらしい。

そして後日、その定食屋に行ってみた。
定食屋のおばちゃんと俺は直接のかかわりはない
けど、やさしそうな人だった。
そして母がよく弁当に入れていたメニュー、
ハンバーグ。それの定食を頼んだ。
そして、それを口にしたとたん、ぼろぼろと
涙がこぼれてきた。

たった3ヶ月しか食べられなかったけど、
たしかに母さんのハンバーグの味にそっくり
なのだ。 腕がまともに動かせないのに、がんばって
作ってくれた、あのハンバーグの味。
形は少し不細工だったけど、とてもおいしかった
あのハンバーグの味。


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